2020年教育改革への僕の本「フィクサーによる日本の教育改革本8 第10章 上」PART3

どうも、武信です。(No187)  

 

前回の記事が以下です。

 

 

2020年教育改革への僕の本「フィクサーによる日本の教育改革本8 第10章 上」PART3です。  

 

構想約5年以上!総文字数約31万2000文字以上の執筆物です。  

 

フィクサーだと僕が思う理由は、2014年頃(正確には2013年頃から着手)から、この本を書き始めており、それと連動して日本の教育改革も進んだことが、まず挙げられます。  

 

また、それ以上の確固たる証拠もありますが、それは伏せることにします。(本が1冊書けるほどの情報量になります)  

 

第10章 「僕が考える理想の大学受験制度とイノベーターを量産するための秘策」

 

7 センター試験の目的と個人的意見

 

ここで一度、原点に戻ります。  

 

そもそも、センター試験は何を目的に行われているのでしょうか?

 

大学入学後に、授業についていける基礎学力を測るためでしょうか?  

 

センター試験だけでは、東大などの難関大学の授業にはついていけないため、2次試験があり、測られていると言われています。  

 

センター試験は情報処理能力を測られているようです。  

 

対して、国立大学の2次試験は思考力中心だそう。  

 

2つを併せて、大学の授業についていける学生を選抜しているようです。  

 

ここで個人的意見を書きます。  

 

東大などを受ける層では、センター試験では差がつきにくくなっています。

 

理由は、出題範囲が高校学習の範囲内だからです。  

 

大学受験は定員があるため、基本的に落とすための試験です。

 

そこでは、TOEICや英検などのような絶対評価ではなく、相対評価です。  

 

どうしても差をつけないといけない試験なのです。出題範囲が狭いと、差がつきにくくなります。  

 

そのため、東大などでは科目数を増やす作戦に出たと思われます。  

 

科目数が増えると、出題範囲が広がるのと同じ効果があります。  

 

本当は、高校の学習範囲内という出題範囲自体を疑問視すべきなのですが、それをやると普通の高校では対応できなくなります。  

 

僕の改善案は、出題範囲を高校学習範囲内で収めるしかないならば、科目数を増やすしかないということです。

 

そして、国立大学は2次試験で独自の趣向で、採りたい学生を選抜すればいいわけです。  

 

センター試験は情報処理能力を測りつつ、基礎学力を測る目的で存立すべきかもしれません。  

 

情報処理能力というスキルは実はある程度、必要です。  

 

情報処理能力については後で述べます。

 

そして、国語は存立させたいならば、評論文4題にするほうがマシです。  

 

8 補欠合格の話

 

また、東大、京大に限り、補欠合格を設けたらどうでしょうか?  

 

従来の補欠合格は辞退などがあったら、入学させないといけませんでしたが、東大、京大の補欠合格は入学はさせないようです。  

 

絶対評価は基準に達しているかを見ているのに対し、相対評価は落とすためであり、過剰な競争であるといえます。  

よって、数点差以内であれば、補欠合格という称号を与えるのはどうでしょうか?  

 

従来、企業は大学の厳しい入学試験を突破したという、思考力やOS力を重視してきました。  

 

ならば、東大、京大に数点差以内に落ちたという学生は、思考力やOS力では合格者とそこまで差はないはずです。

 

これを導入すれば、学歴の価値が再考されるきっかけとなると思います。  

 

合格したという時点での人物が本当にいいのか?という視点です。  

 

補欠合格者も、実力は大して変わらないのですから、採ってもおかしくはないはずです。  

 

ですが、企業側は合格していないという結果に目を向ける気がしています。

 

補欠合格という称号に違和感を覚えるのでしょう。  

 

東大、京大ブランドであり、シグナル重視なのです。  

 

補欠合格者の称号を認めると、合格だけしておいて入学せず、起業のための準備をする学生が出てくるかもしれません。  

 

企業は合格というシグナルを重要視しているわけですから、補欠合格でも称号があるので安心感が出るというわけです。  

 

もしくは、補欠合格社は違う大学に進学するかもしれませんが。

 

この案はぜひ取り入れて欲しいです。  

 

9 朝日新聞の3月9日(月曜日)の広告特集の内容のまとめ

 

朝日新聞の、3月9日(月曜日)の広告特集の内容をまとめます。  

 

文科省(下村博文文科相)は、2020年度からの大学入試改革を、明治時代に学制が始まって以来の教育改革だと考えています。  

 

知識・技能偏重から、「思考力・判断力・表現力」「主体性・多様性・協調性(協働性に表現が変わった)」を踏まえて、総合的に判断するものに変えようとしています。  

 

戦後の復興期から高度経済成長期にかけては、企業に求められたのは「もっとたくさん」「もっと安く」「もっと均質に」でした。  

 

その社会を支えていたのが「ちゃんと」「早く」「いい子に」できる人材でした。  

 

ですが、現在はひとつのモノをたくさんつくっても、在庫があふれ赤字になるだけ。  

 

人々の好みもバラバラになりました。「もっと安く」「もっと均質に」は中国や韓国に取って代わられました。

 

「もっとたくさん」「もっと安く」「もっと均質に」という正解があったときに重要だったのは、1秒でも早く正解にたどりつくための「情報処理能力」でした。  

 

大学受験でも主に、情報処理能力が問われていました。  

 

ですが、衣食住が整い、物質的豊かさが満たされた現代では、心の豊かさが問われるようになりました。  

 

心の満足は人によってバラバラだから、「一つの正解」ではくくりきれません。  

 

従来型の勉強は、正解ありきでつくられた「成長社会」に必要な力を身につける「プログラム」でした。  

 

「成長社会」が終わり、正解がない「成熟社会」となった今は、新しい力を身につけなくてはいけません。  

 

その新しい力が「思考力・判断力・表現力」「主体性・多様性・協調性」というわけです。  

 

正解のない時代に必要なのは、例えれば、ブロックを組み立てる力。  

 

手持ちの情報(ブロック)を組み合わせ、頭をフル回転させて自分だけの新しい答えを「編集」していく力。

 

つまり「思考力・判断力・表現力」です。

 

以上が、簡単なまとめ。  

 

10 僕の意見

 

思考力とは、論理力思考力、哲学的思考力、数学的思考力などがあります。  

 

論理力だけでは、人間は動きません。感情があるからです。  

 

人間との対処の時に必要なのは情緒力みたいな力でしょう。情緒力みたいな力は、判断力の範疇に入るのでしょうか。  

 

情緒力=判断力であれば人間との対処で役立つでしょう。  

 

論理的思考力だけでなく、情緒力(判断力)で情報処理、人間との対処に対応可能です。  

 

表現力は、文章とプレゼンテーション、さらには、プログラミングなどの成果物を全て含む、アウトプット力だと思われるので適切かと思います。  

 

主体性は大事ですが、協調性が含まれるのが気になります。  

 

主体性ということは我が強いということであり、協調性とは反対の概念か、相容れない可能性があるからです。  

 

主体性を持ちつつ、協調するという高度な手腕を求めているのでしょうか。  

 

協調性より、チームワーク力といった方が適切かもしれません。(と書いていたら協調性は後に協働性に表現が変わっていました。さらに共同性に変わっているかもしれません)  

 

日本企業の強みは全員経営であり、結束力なのでチームワーク力といえば、分かりやすいです。  

 

多様性は、人類が生き残るには必要な概念です。  

 

多様な人材がいた方が片方が倒れたとき、もう片方が対応してくれるからです。

 

画一的な人材ばかりになったら意見もアイデアも陳腐になります。  

 

ニーズが多様化した現代では、多様性は大事な概念です。  

 

問題点として公平さが失われます。

 

この本でも何度も主張しましたが、今までの知識偏重の大学入試は点数化が簡単であり、採点者の恣意性も排除され、公平でした。  

 

地道な努力が報われる点が、従来の大学入試でした。  

 

ですが、思考力・判断力・表現力という力は、採点者によって左右されやすい試験内容となりえます。  

 

思考力(論理的思考力、数学的思考力はOK。哲学的思考力は?)をセンター形式のペーパー試験で深く測るのは難しいと思われますが、判断力・表現力にも疑問があります。  

 

どうやって公平に採点するのかという点です。  

 

特に、表現力となると小論文か面接になるでしょうから、採点者によって評価が変わります。  

 

そもそも、正解がない時代に対応しようという大学入試は、正解のない大学入試試験であり、正解がないということは採点者の恣意性に左右されるということです。  

 

今までの知識偏重は少なくとも正解があり、公平でした。  

 

今の時代にそぐわない試験なのは事実ですが、正解のない問題(解釈が自由)では採点が難しく、公平さも失われます。  

 

「その問題点をどう克服するか?」が課題でしょう。  

 

個人的な意見では、欧米のように大学が採りたい人材を取ればいいと思います。  

 

公平さなんて気にしていたら、採りたい人材が採れません。  

 

育ちの良さなども関係してくる難しい問題ですが、そもそも高学歴だからといって人生の成功が保証されているわけでもありません。  

 

育ちが悪く、採点者に気に入られなくて大学入試に落ちたなら、起業を選んで逆転すればいいとも思います。  

 

このテーマについては以下の記事(シリーズもの)も読むと、理解が深まると思います。従来の入試でさえ、まったく公平じゃなかったという内容ですね。

 

https://hontonomedia.com/fixersjapaneseeducationreformbooksupplement/1070/

「英語の民間試験採用と国語の記述式など、共通テストについてのマスゴミのミスリード問題について PART5」   今、この公平さについて、散々、叩かれています。  

 

そもそも企画・構想段階において公平さをある程度、犠牲にしようという理念が垣間見れたので、今頃、問題視されるのもどうかと思いますし、「じゃ、従来の入試でも全然、公平じゃないよね?」という反論にも反対派はまったく反応しません。  

 

改革案を潰すありきの反対だと僕は感じます。もちろん、英語の民間試験はともかく、国語の共通テストの記述式はコスパが悪いので、導入は見送ってもいいと僕は考えています。  

 

ではこの辺で。(4615文字)  

 

このブログは個人的見解が多いですが、本・記事・YouTube動画などを元にしつつ、僕の感性も加えて、なるべく役立つ・正しいと思われる記事を書いています。

あくまで読者がさらに深く考えるきっかけとなればいいなぁという思いですので、その辺は了解ください。

 

参考・引用文献。

朝日新聞の3月9日(月曜日)の広告特集

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