2020年教育改革への僕の本「フィクサーによる日本の教育改革本8 第10章 上」PART2

どうも、武信です。(No186)  

 

前回の記事が以下です。

 

2020年教育改革への僕の本「フィクサーによる日本の教育改革本8 第10章 上」PART2です。  

 

構想約5年以上!総文字数約31万2000文字以上の執筆物です。  

 

フィクサーだと僕が思う理由は、2014年頃(正確には2013年頃から着手)から、この本を書き始めており、それと連動して日本の教育改革も進んだことが、まず挙げられます。  

 

また、それ以上の確固たる証拠もありますが、それは伏せることにします。(本が1冊書けるほどの情報量になります)  

 

第10章 「僕が考える理想の大学受験制度とイノベーターを量産するための秘策」

 

4 アメリカの起業やイノベーションの現状

 

また、アメリカの起業やイノベーションの現状を紹介します。  

 

アメリカでは、連続イノベーション(改善するイノベーションのこと)は大企業がやります。

 

既存の市場・顧客を相手にビジネスをするのです。  

 

非連続イノベーション(顧客を創造するイノベーション。iPodやiPhoneなど)は新興企業(スタートアップ)がやります。  

 

非連続イノベーションにより、連続イノベーションの市場が駆逐されます。  

 

改善だけやっていたら、新たな技術などを使った製品・サービスなどにより、従来の顧客を奪われます。

 

だから、大企業は非連続イノベーションの脅威を心配しなければなりません。  

 

ですが、非連続イノベーションを新興企業がやってくれれば、大企業は失敗のリスクを負うこともないし、従来の連続イノベーションも続けられます。  

 

もちろん、新興企業を買収するという条件付きです。

 

将来、脅威となりそうな非連続イノベーションを持った企業を買収するのです。  

 

そして、連続イノベーションでは敗北しそうな場合、買収した非連続イノベーションの技術で新市場に対応します。

 

これが棲み分けです。  

 

懸念点としては、大企業が非連続イノベーションの開発に消極的になって、非連続イノベーションが生まれなくなることが挙げられます。  

 

新興企業が非連続イノベーションを創造し続けることができるのか?や、そういう新興企業が現れ続けるのか?という懸念です。  

 

大企業の新規事業への参入が減り、新興企業も現れないとしたら、確率的に非連続イノベーションの芽が下がるかもしれません。  

 

アメリカの現状はこうなっています。  

 

また、日本の起業における最大の問題は、大企業がベンチャーを支援しないことです。  

 

ベンチャー推進の決め手は大企業です。

 

ベンチャーの顧客は大企業ですが、大企業が保守的であり、新規事業に手を出しません。  

 

買収事例も少ないのではないでしょうか。

 

アメリカは棲み分けができており、ベンチャーの出口戦略として買収があります。  

 

5 日本の起業の状態とアメリカの優秀層と日本の優秀層

 

また、日本の場合、大企業が政府に働きかけて、規制をかけてベンチャーを潰しているという話すらあります。  

 

ベンチャーの資金調達は、アメリカと比べたら楽な方です。

 

ですが、肝心の起業家人材がアメリカと比べて少ないのです。  

 

本来なら、日本の高学歴層が大企業志向じゃなくて、ベンチャー志向になり、新しいことに挑戦するべきです。  

 

大企業が支援したり、買収してくれたりしたらリスクが減り、高学歴層も挑戦できるかもしれません。  

 

日本の真の問題はここにあるのかもしれません。

 

ベンチャーを大企業が支援しないのは問題です。  

 

ベンチャーの出口戦略がなく、高学歴者がリスクを怖がるからです。  

 

高学歴最優秀層は、外資系や法曹や官僚や研究者や学者や大企業に行くと思われます。

 

起業に目を向けません。もしくは、リスクが少ない医者に高学歴層が群がります。  

 

また、アメリカの優秀な学生はもう年収1000万円以上が保証されていると言えます。

 

Googleなどに入れば、高収入がほぼ確実です。  

 

しかし、アメリカ人の優秀層は年収1000万以上が保証されているのなら、ゲーム感覚で起業しようとなります。  

 

さらに、Googleを打ち負かす企業を作ろうとなるのです。

 

失敗しても、箔がつき、大企業に入り、年収1000万以上は確実でしょう。そこにはリスクはありません。  

 

対して、日本の優秀層は、日本企業ではそのような保証はありません。  

 

だから、リスクを怖がり、外資系法曹や官僚や研究者や学者大企業、さらには医者に群がるのです。  

 

日本でも、アメリカと同じような環境下になればリスクがなくなるわけですから、起業はもっと促進されると思います。  

 

6 日本の授業と理想の大学受験

 

ここからは違う話題に。  

 

日本の高校では一方的授業で受け身であり、アメリカの高校のようにグループディスカッションがほとんどありません。  

 

アメリカのSATは詰め込みですが、グループディスカッションでアウトプット力も鍛えられています。  

 

日本はインプット偏重なのはやはり問題です。  

 

大学入学後もマンモス大学だと大教室での授業が多いです。ゼミだとグループディスカッションできます。  

 

グループディスカッションができないと、アウトプット力は高まらないと思われます。

 

知識を詰め込んでばかりで、アウトプットしないのでは意味がないです。  

 

日本の理想の大学受験とはどんな姿なのでしょうか?

 

僕なりに提案してみます。  

 

まず、大学受験は、どんな目的でどんな人材を採りたいのか明確にすべきでしょう。  

 

各大学間で求める人材像は異なります。

 

そして異なるからこそ、慶應と早稲田では、問題形式が相当異なるのでしょう。  

 

慶應は国語は現代文・古文・漢文がなく、小論文です。また、歴史は1500年以降という近現代だけという学部すらあります。  

 

私立は各大学が試行錯誤して、採りたい学生を採ればいいと思います。  

 

問題はセンター試験です。

 

センター試験は多くの受験生が受けるわけですが、この試験は改善の余地がかなりあると思います。  

 

センター試験は主に、国立大学を受ける層が中心です。  

 

まず、国語を課す必要があるのかという疑問です。

 

センター試験の国語は、評論、小説、古文、漢文から成っていますが、そのうちの小説、古文、漢文の存在意義が疑問符です。  

 

小説とは解釈が異なっても良いと思って、著者は書いている場合が多いです。

 

自由に解釈してもらって、楽しんでもらおうというのが小説です。  

 

なのに、出題者はその著者の趣向を無視して、一義的に決まる解釈を解答にして、押し付けます。  

 

小説がセンター試験に課されるのは、小説の啓蒙のためだと思いますが、センター小説を読んだだけで小説の良さが分かるのでしょうか?  

 

小説は個人で好きな人だけが、読めばいいのではないでしょうか?

 

大学に入ってから、小説を使う場面が来るのでしょうか?  

 

小説は情緒力がつくので、読んだほうがいいと個人的には思っていますが、センター小説を過去問含めて読んだぐらいでは情緒力もつかないし(全体を読んでないため)、小説の啓蒙にも役立っているとは思えません。  

 

つまり、小説をセンター試験に課す意義が分かりません。  

 

そして、古文、漢文ですが、これらは文学部では必要かもしれませんが、他の学部で果たして使うのでしょうか?

 

古文・漢文の背景知識だけは、役立つ可能性があります。

 

三国志や項羽と劉邦のマンガは役立ちます。ですが、昔の文章を読めるようになったからといって今更、何になるのでしょうか。  

 

そういう訓練は専門家がやればいいだけではないかと思います。(つまり、文学部限定)  

 

そういう意味で、センターの小説、古文、漢文は時間の無駄だと思います。  

 

評論文すら、僕は疑問符に思っていますが、センター試験に国語を残したいなら、評論文4題にすべきでしょう。そのほうがマシです。  

 

ではこの辺で。(3513文字)  

 

このブログは個人的見解が多いですが、本・記事・YouTube動画などを元にしつつ、僕の感性も加えて、なるべく役立つ・正しいと思われる記事を書いています。

あくまで読者がさらに深く考えるきっかけとなればいいなぁという思いですので、その辺は了解ください。

 

参考・引用文献。

 

 

「シリコンバレー発 アルゴリズム革命の衝撃 Fintech,IoT,Cloud Computing,AI、アメリカで起きていること、これから日本で起こること」

 

「あらゆるニュースをお金に換える 億万長者の情報整理術」

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