どうも、武信です。(No132)
前回の記事が以下です。
マスゴミ(マスメディアを中心としたマスコミを批判的に扱う際に用いられる蔑称)が、萩生田大臣の「身の丈」発言に過剰に反応して、叩きました。
僕は真実としては、元々、改革に反対だった人たちが「あの発言は使える!」と判断し、騒いだのだと思っています。
「元々、改革に反対する人たち」が多かったのです。
僕は英語の民間試験採用については「話す力がどこまで必要か?」という論点の再確認と、共通テストの国語の記述式についてはかける労力の割に効果が弱い、つまり「コスパが悪い」という観点から、考えるべきだと思っています。
つまり、「入試が公平でない!」という論点は的外れなのです。
「入試が公平じゃない!」と過剰に今回、騒いだ人たちは本質がまったく見えておらず、偽物だと僕は思います。
その理由を述べていきますので、興味がある人は続きをお読みください。
1 産業界からの要請により、大学入試改革が行われたという意見について。
以下の記事を貼ります。
https://news.yahoo.co.jp/byline/otatoshimasa/20191108-00150025/
「「教育再生実行会議」がお墨付きを与えた「アベノミクスのための大学入試改革」」というタイトルです。
一部、引用します。
つまり「教育再生実行会議」の提言は、「産業競争力会議」での議論を既定路線として具体化したものである。
今回の大学入試改革はもともと子どもたちのために提言されたものではなく、産業的な競争のために始められたものであるということだ。
産業界のニーズ→大学教育→高校教育という考え方に基づいている。
略。
「教育」と「人材育成」は似て非なるもの。「教育」とは、どんな時代になっても、社会のなかに自分の居場所を見つけ、自分らしく生きていけるひとを育てる、“ひとありき”の営み。
「人材育成」とは、なんらかの組織に必要な材料としての必要条件を満たすように人間を枠にはめていく、“目的ありき”の営み。今回の大学入試改革は、「教育改革」ではなく「人材育成改革」の発想で始まったことが、以上の資料から明確だ。
略。
経済発展のための人材育成を考えるのは大事なことだし、しくみさえ整えられるのなら英語民間試験を大学入試に活用してもいいと私は思う。
複数の会議体が連携することもむしろ好ましいことである。
しかしここで言いたいのは、そもそも今回の大学入試改革は、子どもたちの未来のために発想されたものではなく、産業的な競争のために発想されたものであるということだ。
理念を具体化していくなかで、受験生置き去りの本末転倒なしくみになっていってしまうのはある意味宿命だったわけだ。以上、ここまで。
あのー、「教育」とは、どんな時代になっても、社会のなかに自分の居場所を見つけ、自分らしく生きていけるひとを育てる、“ひとありき”の営み。とありますが、これ、「具体的にどんな人材を育てるべきなのか?」まったく不明なのですが。。。
そんな普遍的な生きるための能力なんて、あるのですか?
時代によって、求められる能力って変わるものですよね?
Aiがなかった時代には、AIに対応する能力は必要なかったですが、「これからはAI時代になるので、AIに対抗できる能力を身に着けなければならない」という視点が出てきました。
「人材育成」とは、なんらかの組織に必要な材料としての必要条件を満たすように人間を枠にはめていく、“目的ありき”の営み。とありますが、僕は社会を民間・公務員・NPO・その他(フリーランスなど)にMECE(ミーシーという)しています。
そして、民間の比率が圧倒的に高いことが分かりました。
公務員とNPOのざっくり合計で、13%以上くらいになります。
13%ぐらい、約2割にも満たない人を相手に教育するより、その他の8割以上を相手に教育する方が重要度は高くなります。
となれば、民間重視、産業界重視になってもおかしくありません。
また、僕はG型(大企業やIT企業など)と、L型(小売りや卸売り・交通・物流・福祉・保育・介護・医療といった地域密着型の労働集約的なサービス業)に分けました。
高学歴はG型向きであり、L型はどちらかと言えば、高学歴じゃない人向けの教育になるでしょう。
で、大学受験、大学にそもそも進学する人は民間・G型・公務員は多いと思われます。
で、公務員の場合、事務処理能力がかなり求められ、AI時代に対応できるか?も未知数であり、「民間が倒れたら公務員も倒れる」(税収が入ってこなくなったら、公務員も縮小される)という理屈から重要度は下がります。
ですから、民間重視・G型重視の大学受験試験になります。
L型は、サービス業なので、コミュ力がかなり必要であり、大学受験の教養型の勉強って重要度が下がるんですよね。(医療は専門的な勉強が必要です。大学受験では理系に分類されますね)
で、僕は世の中で必要な能力を分類表にもまとめています。以下の記事です。
2020年教育改革への僕の本「日本の教育改革をフィクサー風に語ってみる。PART2」
この著者のおおたとしまさ氏は、ここまで詳細に分析した上で、批判しているのでしょうか?
どういう人材が必要なのか?僕よりもまったく曖昧な概念でしか、表現してないと思われるのですが。
抽象的な曖昧な表現で、人材像をぼやかして表現しても、まったく想像がつかないですよね。
まだ、「民間で居場所を見つけられる人材」のほうが具体的です。
民間に向かないなら、「公務員やNPOやフリーランス」になればいいわけです。
職業や僕の概念から、居場所を見つけられる人材像を示した方が、具体的にイメージしやすくなるでしょう。
僕は今までの曖昧な求められる人材像をかなり、具体的なイメージが湧くように言語化しました。
そこまで「教育学者とか名乗っている人、しましたか?」と言いたいです。
「単に、批判だけして、何か、提案しているのか?」と毎回、思います。
2 日本の英語教育は間違っていないという話について。
以下の記事を貼ります。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191108-00219877-diamond-bus_all
「日本の英語教育は間違っていない!文科省が気づかない真の問題」というタイトルです。
以下、一部、引用します。
2つめの問題が、所得格差が点数格差につながるという問題です。
今回新たに導入される予定だったTOEFLがわかりやすい例ですが、TOEFLにはテクニックがあって、対策をすればするほど点数が上がるというテストです。
塾に通ってテクニックを取得し、模試という形で何度もコンピュータの試験を受け続けていくと点数が上がる。
一方で、初めてテクニックなしで受検をすると、英語が得意な生徒でもそれほどよい成績はとれない。そのような性格の試験を大学入試に導入することが、公平かという問題提起が行われたのです。
略。
東南アジアの人々の英語力が高い理由は、そのほうがストリートで生き残りやすいからです。
欧米人と話が通じて、ビジネスができたほうが儲かる。だから、耳から英語を覚えて話せるようになる――。
略。
一方で、その英語力は極めて生活的です。たとえば、こういう話を聞いたことがありませんか。
帰国子女で英語がぺらぺらな人が、社会人になって外資系企業に入ると、どうもうまく英語が通じない。
話を聞いてみると、小学校までしか海外にいなかったりする。こういう人は日常会話はできますが、ビジネス的な会話が噛み合わないのです。
実は、東南アジアのマーケットで流暢に英語を駆使する現地人や、終戦直後の日本人、そして小学校時代を海外で過ごした帰国子女に共通するのは、「聞く」「話す」力は備わっていても「読解力」が不足している、ということです。
ここで、昭和時代の試験の話に立ち戻ります。
私も高校時代、英語の先生に「なぜ外国人とコミュニケーションするのに役に立たない英語のカリキュラムばかりやらされるのか、さっぱりわからない」と噛み付いたことがあります。実は大学に入ってからも、同じ質問を教授にしたことがあります。
そのとき、お2人とも同じことを私に諭してくれました。それは、「君たちは英語の論文を読む読解力を鍛えるように教育されているのだよ」というものでした。
略。
結局、教育方針として「難しい英文を読む能力に特化して生徒を鍛える」というカリキュラムが成立し、その教育を受けてきた私たちの世代は、滅茶苦茶大変な思いをしながら、複雑な構文の文章を読み解く能力ばかりを身に付けてきたのです。
略。
そうした背景を考慮に入れた上で、今本当に論ずべきは、今のグローバル社会の中で日本人が身に付けるべき英語力はどちらかということです。
増える一方の訪日外国人に対して、街中で「おもてなし」をするためには「聞く」「話す」能力は大切です。また、SNSで外国人の友達と「いいね」をしあったり、気の利いたやりとりをするためには「書く」力が大切です。
それはそれでわかりますが、最近問題になっているのは、むしろ日本人の読解力が落ちているということです。
正確に言うと、以前と比較はできないので、落ちているかどうかには疑問もありますが、日本人の読解力が低いことは確かだということです。以上、ここまで。
この話について、僕は以下の記事で述べています。
2020年教育改革への僕の本「英語の民間試験採用の延期について」PART3
引用しますね。
つまり、一部の学問をやりたい人のために、従来の大学入試があり、さらにTOEFLは存在します。
多くの学生にはTOEICなどの方がいいのです。
しかし、大学という看板があるので、まずは学問としての「読み・書き」に通じる英語力を問う試験で選抜して、大学に入れるか決めます。
多くの学生には関係ない英語をやらされるのですが、まぁ仕方ないでしょう。
だからこそ、超高学歴(東大・京大や早慶など)を出し抜いて、就活で大企業に入社できる学生がいるのです。
それは学問系の英語力ではなく、「ビジネス実用系のTOEIC」などで代替したり、そもそも「学問の能力とは関係ないビジネス力の潜在性がある学生」がいたからです。
つまり、「大学としての教育目的」と、「民間の産業界が求める教育」は異なります。以上、ここまで。
僕の話を、著者は「東南アジアで話す日常英会話」と、「英語の論文を読むための受験英語」(読解力)という話に変換して説明しています。
英語の論文を読むための勉強って、おそらく、一部のエリートだけがやる行為です。
しかし、センター試験の50万人レベルの受験生が、その英語の勉強につきあわされています。
僕は思うのですが、50万人全員が「英語の論文を読める英語力(読解力中心)」を必要としていなく、どちらかと言えば、日常英会話(それこそ東南アジア系)や、「TOEICなどのビジネス英語になる」と僕は思っています。
実は、センター試験や国立の2次試験、つまり大学入学後に英語の論文を読むための基礎学力は、ほとんどのエリートにならない人には必要ないかもしれません。
それを言ってしまうと、大学受験の受験科目で実用的な科目はかなり少なくなってしまうのですけどね。(「数学なんて使わないぞ」や、「古文・漢文・小説なんて使わないぞ」や、「世界史・日本史もあそこまで細かい知識、使わないぞ」となるわけです)
まぁこういう教養科目は本来エリートのものであり、だからこそ、G型、L型という分類が一時期、流行ったのですね。
「教養やリベラルアーツ系より、もっと社会で生きていくための実用的な知識を学ばせろ」という案でした。
これは論争を巻き起こしました。興味がある人は調べてみてください。
英語でも種類がいろいろあるので、「どの方向性を目指すか?」はこの際、議論してもいいかと思います。
ではこの辺で。(5442文字)
このブログは個人的見解が多いですが、本・記事・YouTube動画などを元にしつつ、僕の感性も加えて、なるべく役立つ・正しいと思われる記事を書いています。
あくまで読者がさらに深く考えるきっかけとなればいいなぁという思いですので、その辺は了解ください。
PART5に続きます。