英語の民間試験採用と国語の記述式など、共通テストについてのマスゴミのミスリード問題について PART5

どうも、武信です。(No184)  

 

前回の記事が以下です。

 

  マスゴミ(マスメディアを中心としたマスコミを批判的に扱う際に用いられる蔑称)が、萩生田大臣の「身の丈」発言に過剰に反応して、叩きました。  

 

僕は真実としては、元々、改革に反対だった人たちが「あの発言は使える!」と判断し、騒いだのだと思っています。  

 

「元々、改革に反対する人たち」が多かったのです。  

 

僕は英語の民間試験採用については「話す力がどこまで必要か?」という論点の再確認と、共通テストの国語の記述式についてはかける労力の割に効果が弱い、つまり「コスパが悪い」という観点から、考えるべきだと思っています。  

 

つまり、「入試が公平でない!」という論点は的外れなのです。  

 

「入試が公平じゃない!」と過剰に今回、騒いだ人たちは本質がまったく見えておらず、偽物だと僕は思います。  

 

その理由を述べていきますので、興味がある人は続きをお読みください。  

 

 

1 国語の共通テストの記述式について。

 

国語の共通テストの記述式について、僕は「コスパが悪い」と述べていました。

 

そうしたら、経済学者の飯田泰之氏と、恋愛工学の藤沢数希氏も同じ意見であると分かりました。  

 

以下、それぞれの方のツイートです。  

 

飯田泰之氏のツイート。2019年11月8日。

「うん やめた方がよいでしょう

・大量答案を公平に採点できる記述式=マーク式と選抜力は同じ

・ここまで労力をかけて得られる利益は僅少 →大学入学共通テストへの記述式問題の導入について、立憲民主党など野党4党は、公平に採点を行うのは困難だとして、導入を中止す…」以上、ここまで。  

 

藤沢数希氏のツイート。2019年11月11日。

「大学入試改革は民間の英語試験を導入してスピーキングも偏差値の高い受験生に課そうという試みがつぶされましたので、もう意味がなくなりました。こうなったら、新センター試験の記述式部分は絶対やめたほうがいいです。」  

「ワイは英語スピーキング試験を受験大好きな日本の高学歴層家庭に課すことは日本にとってプラスだと思って応援してきましが、センター試験の記述式は偉い誰かのメンツの問題でマイナスですが、そんなところでケチつけても仕方ないと思ってスルーしていました。」  

 

「なぜやめたほうがいいかというと、コスト100に対してメリットが3ぐらいしかないから。バカでもわかります。ただ、英語の改善のためには、そこは偉い政治家のメンツのためにやってあげないといけないな、と思っておりました。」  

 

「まあ、大きな流れとしては、日本は幕末のように開国派と攘夷派に分かれていて、いまのところ国民の民意も力を持っている政治家も、攘夷の方が多いということでしょうね。僕はもちろん開国派です。」以上、ここまで。  

 

2人とも、「コスパが悪い」と指摘していますね。  

 

僕は、「制限あり、自由度が極度に少ない、今回の共通テストの記述式」では表現力なんてほぼ見れず、「単にツイッターなどでツイートがすぐに思い浮かばないくらい、文章がまったく書けない層を足切りする程度の試験だ」と考えていました。  

 

表現力を見るには、最低でも小論文の800文字ぐらいは必要だと僕は考えていますが、そんな大量の文章の採点など50万人規模の試験では無理です。  

 

採点者の主観が入りまくり、採点にバラツキがかなり生じ、しかも2次試験まで間に合わないでしょう。(50万人規模の採点では、1万人のアルバイトなどの人員では足らない可能性がありますし、評価者の質に難点があります)  

 

2 大前さんの記事。

 

以下の記事を貼ります。

 

https://www.news-postseven.com/archives/20191111_1483539.html?DETAIL

「文部科学省は英語教育から手を引くべき 大前研一氏が提言」というタイトルです。  

 

一部、引用します。  

 

より本質的な問題はその試験によって何を測りたいのかが不明なことである。

 

つまり、重視するのが英語の読解力なのか、要約能力なのか、ヒアリング能力なのか、会話能力なのか、筆記能力なのか、あるいは海外に派遣された時の実戦対応能力なのか、さっぱりわからないのだ。  

 

というのは、学生に必要とされる英語の能力は大学ごと、学部・学科ごとに違うはずだからである。  

 

本来、その違いに沿って大学側が個々に試験問題を作るべきなのに、それを目的も採点基準も全く違う複数の民間試験に丸投げするという発想自体、文部科学省が英語教育を全く理解していないことの証左にほかならない。  

 

略。  

 

ことほどさように、大学入試の英語(語学)試験は、学部や学科の目的によって内容や方法が変わって当然なのである。  

 

たとえば、理系では外国の文献を調べて自分の論文をまとめるための読解力や筆記能力が求められるだろうし、文系ではヒアリング能力や会話能力を重視すべき学部や学科があるはずだ。

 

英語は語学である以上、コミュニケーションのツールである。  

 

そのコミュニケーションが主として論文や学会の発表なのか、会話なのか、メールなのか、それとも会社のプレゼンテーションなのかなどによって、求められる能力は大きく異なるのだ。

 

略。  

 

そもそも民間試験は高校までの学習指導要領と無関係なのだから、文科省は従来の学習指導要領至上主義を放棄したに等しい。  

 

文科省は民間試験と高校学習指導要領の整合性を確認したとしているが、もし文科省が学習指導要領や教育プログラムに自信があるなら、その延長線上で進捗度を測る共通試験を自分たちで作るべきである。  

 

それができないのであれば、もう文科省は“無条件降伏”し、英語教育から手を引くべきではないか。  

 

その代わり、各大学が独自の視点からテストを考案するなり、業者と共同開発するなりしたほうが、受験生や保護者に対するメッセージが明確になるだろう。以上、ここまで。  

 

大前さんの英語の民間試験反対の意見としては、まっとうだと思います。  

 

要は、「どんな英語力を日本国民に教育で求めているのか?はっきりしろ」ということです。  

 

巷の英語の民間試験採用反対派の意見、「公平性、貧困層に不利、高校生の何割が反対」などの記事を見ると、僕は辟易してしまいます。  

 

そもそも従来の大学入試はまったく公平じゃないですし、貧困層といってもシングルマザーだと大学進学自体が厳しいですし(そもそも検定料が払えない家庭は大学進学無理でしょう)、「離島は補助金を出す」と言っています。  

 

また、高校生が実社会のことを熟知しているわけがありません。

 

高校生に入試制度が作れるわけもありません。  

 

なのに、「高校生の大勢が反対している」と言ったって、何の意味があるのでしょうか?  

 

しかも、高校生なら、自分の勉強負担はなるべく減らしたい誘因、楽をしたい誘因がありますから、反対するに決まっています。  

 

そういう高校生の意見を取り上げる記者たちはバカだと僕は思っており、またはわざと、意図的であり、国民の反対派の大半も同じくらいバカだと記者は思って、わざと書いていると思っています。  

 

こういう本質からずれた反対主張している記者たちは、わざとなのか、わざとじゃないのだとしたら、相当、頭が悪いと僕は思っています。  

 

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68484

「いよいよ「無謀さ」が明らかに…大学入試改革に潜む「重大な脅威」」の記事の、中屋敷 均氏も、相当、ピントがずれていると僕は思っています。  

 

そもそも、東大生の親の62.7%年収950万円以上であり、一般群では12.3%しかいないことを考えると、極めて高い比率なのです。  

 

そもそも、今の現状でも、エリート層の大学の選抜は完全に不公平であり、確かな学力(ペーパー試験)でさえ、生まれでかなり有利不利が変わます。  

 

残りの3割以上ぐらいが、東大入試では生まれに関係なく実力で選抜されていることになり、その3割以上は元々、遺伝的に実力がかなりあったからこそ、挽回できたわけです。  

 

その3割以上は、英語の民間試験採用しようが、記述式を入れようが、挽回可能な群だであり、なぜなら能力で挽回した層だと思うからです。  

 

逆に、金の力で、塾で頑張ってきた層の負担(金持ち)が、重くなるだけだと思います。  

 

つまり、めちゃくちゃな論理で、英語の民間試験採用について反対派は騒いでいるだけであり、僕は公平さとかいう論点で叩いている人たちは信用していません。  

 

そもそも、従来の入試が公平じゃないことを完全にスルーしているからです。  

 

そうじゃなくて、「英語の4技能が本当に必要なのか?」「国語の記述式がそこまで必要なのか」(僕はコスパの観点から意味ないと思っている)、の論点から反対している人だけは信用に値すると思っています。  

 

公平、公平、騒いでいるけど、そもそも従来の入試はまったく公平じゃないですが、まぁ、金持ちの遺伝的に才能ない層の負担が増えるから、反対しているのかもしれません。  

 

さらに、シングルマザーや離島など、大学受験自体厳しい層を引き合いに出してでも反対しています。(「検定料が払えない」ってそもそも大学受験自体が厳しいとなぜ、分からないのでしょうか)  

 

また、英語の民間試験採用にせよ、国語の記述式採用にせよ、そこまでの大きな改革ではなく、マイナーチェンジレベルであり、これで、「日本の教育は終わった」とか言っている人がいたら、頭がどうかしていると思います。  

 

まぁ、英語の民間試験採用はしてもいいし、しなくてもいいレベルで、大して影響がないだろうけど(まぁ論文英語力が落ちる可能性あります。英検などの英語力は伸びても)、「国語の記述式はコスパが悪すぎる」ので、導入する意味が不明です。  

 

大前さんの今回の記事でも書かれていますが、「国がどんな英語力を生徒に求めているのか?はっきりした方がいい」とありますが、これこそ本質論です。  

 

公平さや、貧困層や離島に不利など(これらは大学進学自体無理や補助金で対応可能)、は重要な論点ではありません。  

 

記述式も、採点者のアルバイトが問題だとか、「ミスしたらどうするのか?」とか、情報漏えいとか、制度の不備を指摘する声が多いですが、「そもそも記述式の導入の意味そこまである?のコスパ問題」があまり聞かれません。  

 

「単なる、ツイッターの短文さえ書けない層の足切りにしかならない」と僕は思っています。  

 

「何十億もかけてやる必要性あるの?効果がそこまであるの?」という視点から見たほうがいいのです。  

 

さて、英語の民間試験採用について、「TOEFLを、大学入学後に、志望者に補助金を与えたらいい」という意見もありましたが、それも一理ありますが、基本的に入試まで頑張る層が多いです。  

 

大学入学後は頑張る人は頑張りますが(一部だけ)、頑張らない人はとことんやりませんから、英語の4技能なんて伸ばそうと言う人は少ないと予測します。  

 

入試にあれば、仕方なく、対策は絶対にしますし、それが英語の民間試験採用の最大の功績というか、効果でしょう。  

 

また、今回の改革への批判派は「社会から見た大学受験という視点」が皆無なんだと思います。  

 

学者の意見でしょうかね。  

 

「民間の会社から逆算する視点」もおそらく皆無です。  

 

大学受験がコンテンツとして役立たなくて、「ノウハウ学力としては役立つ」という意味から、「コンテンツを変えよう」というのが僕の主張です。  

 

で、役立つコンテンツ、大学受験にし、民間でも即戦力として通用するようにし、なるべく受験生に無駄なく勉強させたいという思惑から考えました。  

 

だから、英語の民間試験という発想になりましたし、就活では英語の民間試験が多用されていますよね?  

 

しかし、この「大学受験のコンテンツの無意味さ」という本質論にあまり言及している学者はいません。  

 

なぜなら、学者こそ、無意味な教養の先導者であり、民間とは離れている人たちだからです。(理系は除く)

 

教養で生きられる人など1%以下?であり、その1%以下を量産しようというのが現在の大学入試です。  

 

だから、就活で逆転も起こり得ます。  

 

意味のないコンテンツ(教養系)を散々やらされて(しかも大学以降の学問の方が有用なのに、大学入試時点で皆、尽き果てます)、大学入試までの意味のないコンテンツまで全力で頑張り、大学入学後、力を入れなくなるのです。

 

僕は本当に文系、特に人文科学系の大学教授には辟易しています。(もちろん、一部には有用な人もいますが全体として見た傾向です)  

 

人文科学系の大学教授の書いた市販本で、実用そうな本はかなり少なく感じます。しかも、文章が下手くそですが、ライター使っていないのでしょうか?  

 

まだ、社会科学系の方がいいです。  

 

社会科学系の学者の書いた市販本は実用性が高いのもそれなりにあります。  

 

やはり、経済学、経営学はビジネス世界ではそれなりに有用です。  

 

法律もそこそこ使えます。政治学と社会学は微妙です。

 

心理学もそこそこ使えます。学問としての哲学は微妙です。  

 

3 公平性の記事で初めてまともな人の意見を聞いた!

 

しかし、最近、公平性の記事で初めて、まともな人の意見を読みました。

 

https://blogos.com/article/417899/

「「身の丈」から抜けられない教育格差を放置してはいけない/松岡亮二氏(早稲田大学留学センター准教授)」というタイトルです。

 

一部、抜粋します。

 

ところが、早稲田大学留学センター准教授で教育社会学者の松岡亮二氏は数々のデータを元に、日本には親の学歴、家庭の経済状況、そして住む地域によって厳然たる教育格差が存在し、それは幼年期から始まり一生ついて回るものになっていると指摘する。

 

また、日本の教育格差は先進国としては、大きすぎも小さすぎもしない、平均的なものだとも語る。  

 

略。  

 

とは言え、萩生田発言はこれまで必ずしも十分に認識されてこなかった日本の教育格差の実態に目を向ける契機を与えてくれたという意味では、非常に重要な意味を持っていた。  

 

問題はそれを契機にわれわれがどのような社会を志向しているのかをあらためて問い直した上で、そのためには現在の教育格差をどうするべきかをしっかりと議論し考え、行動に移す必要がある。  

 

日本には義務教育があるが、単に機会を与えるたけでは、格差は縮小しないと松岡氏は言う。  

 

義務教育課程でも学校間格差や地域間格差が顕著なため、これだけでは格差の縮小には寄与しないのだ。  

 

既に固定化してしまった格差を解消するためには、よりアファーマティブなアクション(積極的な是正措置)が必要となる。

 

天然資源を持たない日本にとって人材は唯一の資源だと言っても過言ではない。その意味で教育は国家百年の計に関わる最重要課題だ。  

 

今回の問題発言によって露わになった日本の教育格差の現状を、単なる大学入学共通テスト問題や政局問題にすり替えず、われわれ大人たちは、自分たちが子どもの時にもっとこういう教育制度があればよかったとか、もっとこういう機会が欲しかったというような、自分たち目線に置き換えて議論することが必要ではないか。以上、ここまで。  

 

従来からある教育格差についての本質論を説いていますね。  

 

詳しくは記事をお読みください。  

 

ではこの辺で。(6669文字)  

 

このブログは個人的見解が多いですが、本・記事・YouTube動画などを元にしつつ、僕の感性も加えて、なるべく役立つ・正しいと思われる記事を書いています。

あくまで読者がさらに深く考えるきっかけとなればいいなぁという思いですので、その辺は了解ください。

最新情報をチェックしよう!